森鴎外が小倉市(現北九州市)に滞在した2年10ヶ月について、調べて歩く一人の青年がいた。
田上耕作というその青年は、身体こそ不自由であったが頭脳が明晰で、地元の指導的文化人である白川慶一郎のもとに出入りし、資料調査の手伝いなどをしていた。
ある時、鴎外の小倉時代の日記が散逸したことを知り、失われた空白を、当時流行し始めた民俗学の調査方法で「資料採集」し、埋めていくことを思い立った。
耕作は、鴎外の調査に打ち込んだ。鴎外がフランス語を学んだベルトラン神父や、朋友・玉水俊●の未亡人、鴎外にたびたび原稿を依頼していた元門司新報支局長・麻生作男など、小倉時代の鴎外を知る人物に取材し、鴎外像や交友関係が明らかになっていくにつれ、ますます情熱を燃やした。耕作の母・ふじは、そんな息子を励まし支え続けた。
しかし、資料が嵩を増す一方で、耕作の病状は悪化していった――。
※玉水俊●の ●は交に虎
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