"円"と『マネー』と人間万事金世中
堤 春恵
『人間万事金世中』の初演は、明治十一(1879)年、東京一の大劇場と言われた新富座である。同時に上演されたのは能を下敷きにした『勧進帳』と史実に忠実な『赤松満祐梅白旗』。散切り物、松羽目物、そして活歴の、この時期の歌舞伎にとって三本の柱となる演目を並べての上演であった。初演の顔ぶれには当時の大スターが居並ぶ。主人公の恵府林之助は明治の三名優の一人五代目尾上菊五郎、『勧進帳』で弁慶と富樫を演じた九代目市川團十郎と初代市川左團次はこの作品では脇に回っているが、林之助と結ばれる娘おくらには明治を代表する女形八代目岩井半四郎そして老け役、敵役を演じさせては並ぶものがないと言われた三代目中村仲蔵が林之助の伯父、強欲非道の辺見勢左衛門に扮している。『人間万事金世中』の上演に賭ける新富座座主守田勘彌の意気込みが伝わって来るだろう。
文明開化がもてはやされたこの時代、『人間万事金世中』のセールスポイントは、1840年にロンドンで初演されたエドワード・ブルワー=リットンの戯曲『マネー』の翻案である事だった。作者河竹黙阿弥に『マネー』の筋を教えたのは西洋通として名高い東京日日新聞社長兼主筆の福地桜痴である。桜痴は幕末、明治初期に幕府、政府派遣の使節団の団員として、四回に渡って欧米を訪れていた。
主人公林之助の立身出世譚、おくらとの純愛物語の体裁を取ってはいるが、この芝居の筋を進め行くのは金である。徹底した金の亡者であるという点で辺見勢左衛門とその妻おらん、娘のおしなこそがこの芝居の陰の主役といえるのだろう。辺見夫婦は居候だった林之助が親類の遺産を受け取って亡父の店を再興したのを見て、娘を押しかけ嫁入りさせようと企むが、林之助が破産したと聞くとあっさり手のひらを反す。美男の林之助に名残が惜しいかと問われたおしなが「いえいえわたしゃ厭ひませぬ、業平さんでもひょっとこさんでも灯りを消したその時は、別に変りはござんせぬ」と答えるのを聞いて勢左衛門は、「金に惚れるは開化進歩」と娘をほめそやす。初演時の観客にこのシーンは大うけしたという。
外国との貿易のために近代的な通貨の制度を作り上げる事は明治政府にとって緊急の課題であり、明治四年に金本位制を導入して新しい通貨を円≠ニ名付ける。ジャーナリストに転身する前の桜痴は大蔵省に勤務し、アメリカで通貨制度を学び、大阪に新しく建てられた造幣局で新しい日本の通貨の誕生に一役買った。辺見の店の店先で勢左衛門は、おくらの養育金二百円を妻と奪い合い、舞台中に五円札をまき散らす。桜痴は『マネー』の翻案劇を新富座の舞台で上演させる事で、自分が生み出した円≠舞台で舞わせたかったのではないか。
仮想通貨がネット上を舞う現代でも、金に群がる魑魅魍魎の絡み合いは明治時代と変わらない。新富座ならぬ国立劇場で前進座が上演する『人間万事金世中』の幕がやがて開く。
つつみ はるえ 劇作家。『仮名手本ハムレット』(1992年。読売文学賞)、『奈落のシャイロック』(2017年)ほか。 |