俊 寛
原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『平家女護嶋』全五段。「平家物語」の世界を背景に創造したスケールの大きな歴史物語です。前進座では4幕11場の歌舞伎として1991年、享保5年の歌舞伎初演以来じつに271年ぶりに上演した作品。
通常全段通して演じられることは少なく【鬼界ヶ島の場】のみ独立して上演されることがほとんどです。前進座の『俊寛』は、単に『平家女護嶋』の中の【鬼界ヶ島の場】だけをやるのではなく、そこに『女護嶋』全体を埋め込んだ創り方をしています。それは、対立の背後に権力内部の葛藤を描いた丹左衛門と瀬尾の扱い方や、あずまやの悲劇をはっきり印象づけることで浮かび上がる俊寛の「笑い」の幕切れ、そして歌舞伎の役柄としての「娘」とは全く違う千鳥の役づくりなどに表れています。
その一、幕切れの「笑い」
瀬尾を殺し、ただ一人島に残った俊寛――。あきらめてはみたものの、悲しみに思い乱れ叫びながら船を送る、苦しみの境地。苦しんで苦しんで、そして俊寛の辿り着いた心は…。自分は犠牲になっても、無念の思いは必ずや若い二人、成経と自分の代わりに船に乗せた千鳥が引き継いでくれるだろう。そんな未来への希望をつないだ幕切れが、翫右衛門以来引き継がれている前進座の『俊寛』なのです。
2004年1月南座公演
俊寛=梅之助
その二、自立した女性・千鳥とあずまや
成経の恋人・千鳥は歌舞伎の娘役ではありますが、近松が描いたのは心の純粋な海女で、原作では、次の幕で清盛にたてついて殺されてしまう正義感あふれる女性。俊寛と瀬尾の立ち回りの最中、塩かき熊手をもって俊寛に加勢しようとする場面も見受けられます。
また、【鬼界ヶ島の場】には直接出てきませんが、瀬尾と丹左衛門の言葉から、俊寛の妻・あずまやは、俊寛が流罪になった後、清盛を拒み操を守って自害したことがわかります。ここには、単なる夫婦愛ではなく、心をひとつに権力と対抗する夫婦の愛の形がうかがえます。
原作では四段目で、千鳥とあずまやの亡霊が清盛を苦しめ悶死させます。女性が無力とされる封建社会の中で、ここに登場する女性は、実に個性的で力強い、自立した人間として描かれているのです。
その一、流罪のきっかけ「鹿ケ谷の陰謀」
鹿ケ谷の陰謀とは、1177年(安元3年)6月に起こった、平家打倒の陰謀事件。京都・東山鹿ケ谷の俊寛の山荘(静賢法印の山荘ともいわれる)で後白河法皇の近臣・藤原成親、御倉預・西光を中心に法勝寺執行の俊寛、検非違使の平康頼、その他藤原成経、源成雅、中原基兼、惟宗信房らと平家打倒の謀議が行なわれたとされ、このように呼ばれます。
この事件の背景には、この時期急速に台頭してきた平家一門に対する貴族層の反発があったとされます。この事件によって後白河法皇は、罪には問われなかったものの、執政は停止されました。
その二、鬼界ヶ島ってどこ?
「…都を出でて、はるばる遠くの波路をしのいで行く所也…島の内には高き山あり。とこしなへに火燃ゆ。硫黄と云物満ちみてり。…硫黄が島とは名づけたれ…」(平家物語上巻 巻第二「大納言死去」)
「平家物語」の中の“鬼界ヶ島”はこのように描写されています。
現在「鬼界ヶ島」という名の島はなく、俊寛らが流されたと考えられている島は、三つあります。俊寛が晩年を過ごしたという「俊寛堂」が復元された「硫黄島」と、俊寛のものと伝えられる墓が残り同年代の人骨も発見された「喜界島」は、ともに鹿児島県・薩南諸島に。もう一つ、やはり俊寛の墓があり北原白秋の歌碑が残る「伊王島」は長崎県です。
他にも、平家物語の中では流されたことになっているが実は…と、能登半島や富山県等、「俊寛塚」や「ゆかりの地」とされる場所が各地にあるようです。
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