前進座トップページへ
 
みどころ

倍賞千恵子さん《メッセージ 『おたふく物語』によせて》
倍賞千恵子

この度ご縁がありまして『おたふく物語』の主題歌を歌わせていただくことになりました。
歌の詞に「清く強く名前なく人は生きてゆく」また「汗と涙きらめかせ人は生きてゆく」とあるように(私この部分、とても好きなのですが)日本女性の生きる姿を、美しく切なく描いたこのお芝居、主演の今村文美さんの熱演が今からとても楽しみです。

 

 

《周五郎さんは…》
1903年(明治36年)、山梨県生まれ。4才の時、大水害の被害で東京都に転居。その後も、各地を転々としました。
横浜市の西前小学校卒業後すぐに、東京木挽町の質屋・山本周五郎商店に徒弟として住み込みますが、関東大震災で被災、解散。
23才の時『須磨寺附近』が「文藝春秋」に掲載され、文壇デビュー作となりました。『日本婦道記』が1943年上期の直木賞に選ばれますが、受賞を辞退。その後も「読者に評価されればよい」との姿勢を貫き、賞≠ニいうものはみな、辞退されています。
1967年(昭和42年)2月14日没。享年65。
周五郎さんの「人間の本質を見つめる温かな視線と限りない包容力」は、様々な苦労を味わい、独学で小説を学んだというご自身の人生から生まれ出たものなのですね。


《周五郎さんの逸話》
前進座で上演した周五郎作品の脚色を手がけた田島栄は、こんな風に語っています。
「1964年『季節のない街』の稽古で初めて会った時、地味な着物を着たこわい感じのおじさんが、ウィスキーとグラスを乗せたお盆、冷たい水の入った魔法ビンなどを持ったお付きの人を連れてやって来た。そして、稽古場に案内すると、机の前にデンと坐って、稽古を見ながら、水割りウィスキーをガッポガッポと飲み始めた…。」
お酒が大好きだった周五郎さんらしい一コマです。


《『おたふく物語』の生まれた時代》
今回の『おたふく物語』は、もともとは「おたふく」(1949年「講談雑誌」)「妹の縁談」(1950年「婦人倶楽部」)「湯治」(1951年「講談倶楽部」)という、違った掲載誌に三年間で発表された三篇の独立した作品でした。
発表されたのは、最初の「おたふく」が終戦の4年後。敗戦で世の中の価値観がひっくり返り、人間不信が渦巻く時代に、周五郎さんは「人間てそんなもんじゃない」「まだまだ捨てたもんじゃないよ」、そんな想いをこの作品に託したと言われています。
そして今…。苦しいことの多い日常、でも人は、その中でささやかな幸せをさがしながら、毎日を生きています。3・11の大震災以降この国の価値観が見直されてきました。「絆」「思いやり」「信じること」、その強さ・あたたかさを正面から描いたこの作品は、厳しい現実を生きる人々への応援歌≠ネのです。