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「弁護士・布施辰治」劇化上演に向けて
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「弁護士・布施辰治」劇化上演に向けて

     思い出・ゆかりの地をたずねて



劇団創立間もない頃から、法律顧問として劇団を支援して下さった布施辰治氏は、植民地支配(侵略戦争)や治安維持法等に反対して不当に拘束された人々をはじめとする、民衆の側に身を置く人道弁護士として一昨年、日本人としては、 初めての韓国建国勲章を贈られました。 本年3月、劇団創立七十五周年の悼尾を飾る公演として劇化上演に向け準備が進められる中、氏の出身地石巻で、お話しを伺い、ゆかりの場所を訪問しました。

2006年11月6日、仙台弁護士会館に、石巻で弁護士業を続けながら顕彰運動を進めている庄司捷彦氏と、布施辰治氏の直孫にあたる大石進氏を迎え、座からは脚本演出の十島英明、脚本の山口誓志、制作の及川昭義・豊田美智恵が参加。


「弱きを助ける」弁護士の使命
及川

庄司弁護士と座との出会いは、二十年程前の「柳橋物語」石巻公演からです。最初にまず、布施辰治弁護士とのかかわりなどから…

庄司

私の祖父の生まれが、辰治と同じ蛇田(現・石巻)なんですが、若い頃、東京で布施事務所の書生をしていた。その頃の話で、例えば「中央公論の何月号何ぺージを開いて持ってきてくれ」と言われ、書庫で探すとちゃんとそこにその事が載っているので驚いたそうです。

 祖父が布施事務所前で撮った写真もあった。当時は同郷出身の若者を大勢世話していたんですね。後年、知事選に立ち過労で倒れて日赤に入院した時、弁護士をしていた祖父が一時世話をして…随分、食道楽でよく「天麩羅が食べたい」と言ったとか…そんな縁もありました。

辰治の顕彰運動は、最初、古本屋をされていた櫻井清助氏と特別養子制度実現へのきっかけをつくられた菊田医師によって始められたのです。その頃、立像をという話もあったようですが、それは立ち消えになりました。市民や弁護士会からもカンパを募り、今ある顕彰碑を建てようとしたのはその後です。表には、あの有名な『生きべくんば民衆と共に 死すべくんば民衆の為に』 名古屋市 立大学の森正先生に裏面の碑文をお願いしました。

山口

 「強きをくじき弱きを助ける」まさにそれを実践して弁護に当たられた方ですね。「任侠、これ弁護士の使命なり」とも言っておられますね。

大石

 「解放之先駆 是当事務所之使命也」と事務所には掲げてありました。


世の中を明るくするために
十島

わたしが劇団に入ったのが一九五七年。肖像画が掲げられていましたが、前進座の顧問だとは、つゆ知りませんでした。劇団の女優深町稜子が戦後の一時期、布施弁護士の事務所で働いていた事、そして氏の勧めで前進座に入って来た事も、後に知ったのでした。一九三五年に映画演劇の研究所建設の計画が持ち上がり、布施先生に相談して以来、座の法律顧問として知恵をかして下さいました。お陰で二年後の 三七年 に、ついに劇団員にとっては夢のような研究所が吉祥寺に出来ました。いざ、求めようとした建設予定地は二重、三重に抵当に入っていたのを見事に解決して下さった。組織固めから民主的な劇団運営規約、どれも布施先生のお陰で今日、七十五年の歴史があります。これまでにも幾度か劇化の企画はあったんですが、何しろ巨人過ぎて、どこをどう描いたものかと…

 庄司

そうですよね。

十島

大石さんのエッセイは面白かった。布施先生の人となりが、見事にとらえられた素晴らしいものですね。革命を「電燈」に例えた …

 大石

ああ、幼い頃の私が 祖父と交わした話ですね。 祖父に「暗い部屋を明るくするにはどうしたらいいと思う?」と聞かれて私は「明るい電球に替えるしかない」と答えると「でもそのためには今点いて い る電球を外さなければならない。新しい電球が点けばもっと明るくなるけれど、一瞬、真っ暗になる。その闇を耐えても明るい世界を望むか、ひと時の闇を厭うか、いろいろな考えの人がいる」

「おじいさんは?」と聞くと、ちょっと間をおいて「一瞬といえども真っ暗闇にしないで、この部屋を明るくすることができればいいと思うんだ」

十島

トルストイアン布施先生の思想が躍如としていますね。大石さんには叔父にあたる布施杜生さんが治安維持法違反で下獄、京都刑務所で亡くなられて いますが、その頃のことですか。

 大石

いいえ、もう少し後の話です。わたしは杜生が亡くなった直後に疎開で祖父の元に預けられたのです 。祖父の辰治がよく「モリオ君」と私を呼び間違えました。私には叔父杜生に似た雰囲気があったようです。 そんなこともあってわたしは杜生叔父に親しい感情を持ち続けています。


旧い法律 を楯にして
大石

戦時下、弁護士資格を奪われていた時、前進座の顧問料、たぶん20円か30円くらいだと思うのですが、これが貴重な定収入でした。いつも届けて下さる楽三郎さんという方、元俳優さんだと思うのですが、子供心にも大変だろうなと。

 山口

ご一緒には、どの位?

庄司 

前進座のお子さん達が病床の辰治に送った絵も残っていますよ。スライドにして一周忌の記念の会で写したものです。台本は柑治さん(辰治の長男・本名は丙午。辰治の伝記の著者『ある弁護士の生涯』岩波新書)が書かれた。私が預かっています。 

十島

その台本とスライド、是非拝見させてください。それにしても、あの明治憲法下、その 旧い法律 を楯にしながら弁護活動を展開したその論法が素晴らしいですね。

庄司

「彼らの法律で彼らを縛れ」というソクラテス流ですね。あの専制主義国家のもとで、人々の、とくに弱者の権利を守るために、布施先生一流の論理、論法を果敢に展開されましたね。日本の人権史の中で大きな足跡を残した方です。

十島

録音が残っていれば、声を聞いてみたいですね。

大石

郷里の訛りが少し残っていたようです。東北の言葉はたいへん美しいのですよ。

十島

生まれ育った農村・蛇田の小作農や、程近い石巻の漁港の漁師達の、貧しい暮らしや苦労を見て来た事が、弱者への弁護につながっていったのでしょうね。

 山口

自由民権運動の雰囲気も残っていたでしょうし ……

庄司 石巻には当時から木造のハリストス教会があってロシア正教が盛んだったんです。その影響もありますね。
十島

上京して即刻入校したのが神学校でしたね。ニコライ堂ですか。校長と喧嘩して直ぐ退学してしまったようですが。

 大石

東京のニコライ堂のエライ人たちよりも、ある意味もっと純粋な信仰心が東北にはあったんですね。それと、民権の心も。

 十島

その上で、弁論の方は巧みだった。 韓国「建国勲章」受章記念シンポジウム(明治大学タワーホール)で話された「尾行」の件は傑作でした。

 大石

大杉栄が尾行の刑事をステッキで殴って公務執行妨害に問われた。その弁護に「隠密令」(太政官布告)を持ち出して「隠密はすべからくひそかに尾行しなければならない」とある。しかるに公然と刑事がまとわりついたのは、適法な公務 の 執行とはいえない。従って公務執行妨害にはあたらない」と。尾行の刑事にも色々あって、辰治の尾行についていた刑事は、秘書と間違われたとか。荷物を持たせていたそうです。

 山口

岡山で病気療養中の小林弁護士を見舞った時の事ですね。

人間くささも魅力のひとつ

 十島

弁護士という仕事は一面、清濁併せ持つ豪快さも必要ではないかと思いましたね。布施先生の仕事振りを見ると、様々な依頼人がありましたね。右から極左まで、あるいはヤクザの親分とか、中には自分から買って出ることもしばしばでしたね

 山口

特に戦後は、いかがわしいような人の出入りも多くて、足を運び難くなった、と書かれていましたね。

 大石

ちょっと私の感性とは相容れないような雰囲気で…

十島

二等車に乗って一人で移動して、皆が待つ駅の少し前で三等に乗り換える話もありましたね。戦後直ぐの秋田での朝鮮人のドブロク裁判の時でしょうか。

大石

ああ、あれは秋田まで 二 等車で

行き、下車する時には三等車に移動してホームに下り立つというものでした。祖父の体調を考えて周囲で相談していたのです。私は、ふとその話しを耳にして、子供心にけしからん、偽善者だ、と思ったんです。でも考えて見ると、祖父はもうその頃、七十才に近かったのですから当然のことだったのです。何しろ当時の三等車は板敷きの硬い席でしたからね。

祖父は人力車や、後には車を持っていて乗り回し、そういう自己顕示的なところは多々あったようです。

 十島

自己顕示欲というより、たいへんアクティブですね。関東震災の折には民心の動揺を抑えようとオートバイのサイドカーに乗り込み火炎の中に馳せる ……

 大石

わたしにはコルクのヘルメットをかぶってサイドカーに乗っている辰治の姿が目に浮かびます。

 十島

ほう、ヘルメット。南洋探検のような?

 及川

エジプトの吉村教授のような?

 十島 

それは面白い。いかにも、らしい姿ですね。

大石

かと思うと、遊郭から逃げた娼婦を助けるために、救世軍の聖職者と婚姻届けを出させて、前借金を無効にした(戦前の民法では、婚姻すると女性は権利能力を大幅に失うという現在から見れば悪法だかそれを逆手にとった)。その聖職者は何度も布施に「婚姻させられた」そうです。

山口

見事な論理ですね。

庄司

戦時色が濃くなると治安維持法違反で被告になったりもしましたが、保釈の時、東北に戻って岩手小繋の山林入会権をめぐる紛争の解決に 努め ました。大衆の中の一員として、自己を捉えていたようです。

 山口

お話しいただいたような 普段の姿も含めて、多面的に、描きたいですね。「進君遭難記」なんかも面白いエピソードが満載ですし、

 大石

私が 10メートルほどの高さから 転落して大怪我をした時、辰治が書いた物ですがね、今の私には大切な宝物ですよ。

 十島

大石さんの書かれたエピソードも含めて、巨人・布施辰治弁護士の人となりの魅力溢れる話が沢山ありますね。

 山口

庄司弁護士や森先生の御研究なども含めて、今も皆さんの心に深く刻まれた辰治像を舞台に描きたいと思います。

 及川

お忙しい中、貴重なお話を本当にありがとうございました。

 

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