サムゲタンの店を出ると外は長蛇の列だった。なるほど、昼前に店に入る必要があったのだ。日本人の観光客も多いのだが、地元の人が並ぶ店なのが嬉しい。大変、おいしかった。
サムゲタンで体力をつけた我々は一路、景福宮(キョンボックン)を目指す。景福宮は朝鮮王朝の住まいであったところ。しかし、日本の侵略により城を追われ、王妃を殺され(乙未事変、閔妃暗殺)、建物のほとんどを破壊された。更に、韓国併合以後は敷地内に朝鮮総督府を建てたため、街から景福宮は見えなくなった。韓国ではこの景色の変化を歴史的屈辱として捉えられている。
せっかくの景福宮ではあったのだが、ここを見ていては今日中にソウルを回りきることは出来ない。泣く泣く興礼門(フンネムン)から中を覗いただけで目的地である民俗博物館を目指した。
民俗博物館ではイヤホンガイドを頼りに進んでいく。時間もないため、目的の近現代まで小走りで進んでいく。途中、昨日見た韓国式の家屋の展示もあった。本物を見た後なだけに、学術的に昨日の知識を裏付けられ大変ためになった。
コーナーは現代に近づいたのだが、日帝時代は韓国にとって、自身の歴史とは無関係の文化を押し付けられた時代でもある。民俗博物館にそんな価値のない時代のコーナーがあるわけはなく、その空白の時代の前後から想像するしかなかった。当時の韓国の暮らしはなんとなく分かるのだが、そこに日本の風習がどれだけ浸透していたのかが分からない。たとえば、日本では当たり前のもんぺや国民服を韓国では着ていたのだろうか。白さんに聞いてもはっきりしない。地域や貧富の差でも違うので一概には言えないのだが、舞台化する上では避けて通れない問題だ。当時を描いた韓国の映画やドラマから今度は探してみようということになり、民俗博物館を後にした。
続いて向かったのは徳寿宮(トクスグン)。景福宮の後に皇帝が移った城で、日本が韓国を併合する上で悲劇の舞台となった宮城である。この日は、正門の大漢門(テハムン)では王宮守門将交代式が行われており、朝鮮王朝時代の華やかさを思わせる行事が行われていた。その大漢門の道を挟んだ向かいにソウル市庁庁舎がある。この建物も日帝時代に京城庁舎として日本が建てたものだ。今ではカラフルな壁に覆われて建物の特徴であるタマネギ型の屋根だけが覗いている状況だった。
さて、徳寿宮の中は専用のガイドさんが案内してくれる仕組みになっている。しかし、この時間に参加したのは我々4人と一人だけ。ソウルの街は買い物に美容にと楽しみがいっぱいなのは分かるが、ちょっぴり寂しい気持ちがした。
徳寿宮内には様々な建物があるのだが、異彩を放つのは石造殿(ソクチョジョン)と呼ばれる洋館であろう。これは1900年に皇帝高宗(コジョン)が外国使節との折衝の場として着工したのだが、完成した頃にはすでに日本に統治されていたため、外交権を失っていた。高宗はことあるごとに日本の侵略を世界に訴えようと努力していた。しかし、その事実が露見するたびに、力で押さえつけられてしまう。せっかく建てたこの建物も、本来の使われ方をすることはなく、結局は日本人の美術品置き場になっていたらしい。
高宗は悲劇の皇帝である。李氏朝鮮王朝の26代目の君主となり、後に大韓帝国の初代国王となる。1907年に退位させられまでに城を追われ、皇后を殺されてしまう。息子の純宗(スンジョン)に王の座が移ってから1919年に没するまでこの徳寿宮に住むこととなる。だが、その死に方に不審なところがあったことを機に、日本統治時代最大の独立運動である「3・1独立万歳運動」の引き金となっていく。
簡単にだが併合時の歴史を学び、徳寿宮の脇にあるトルダムキルという石垣の小道を通って次の目的地へと向かうことにした。この石垣の通りのイチョウ並木は日本より一足先に紅葉しており、格好の行楽日和だった。途中、韓国最古のプロテスタント教会「貞洞教会(チョンドンキョフェ)」に立ち寄って、大通りへ。なんでもこのトルダムキルはカップルで歩くと別れるという迷信があるらしい。このメンバーで聞いても「ふーん」という感じではあるが、そんな井の頭公園みたいな迷信はどこの国にもあるんだなあと感心してしまった。
第六回へつづく
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景福宮の興礼門の前にて。
立派な門の前には当時の門番たちを再現していた。観光客は近づいて記念写真を自由に撮ってもいいとのこと。
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徳寿宮の大漢門の真正面、モダンな壁に隠されているソウル市庁庁舎。かろうじて頭の部分が覗いている。
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石造殿と浚明堂(チュンミョンダン)。
敷地内に韓国の建物と洋風の建物が並んでいる不思議さ。まさしく韓洋折衷。
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トルダムキルの小道。
最高の天候に感謝!
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